再び六年前
パシュハウ沼で出会った少女の身をマヤコフに託し、単身王都に帰還したラジュリーズにもたらされたのは父急逝の報せだった。一夜のうちに容態の急変した父は、ほとんど苦しむこともなく、家人に看取られ眠るように他界したらしい。結局自分は死に際に居合わせることができなかった──────取り乱すこともなくその事実を受け入れた自分を責めるべきなのかどうか、ラジュリーズには分からない。隊の存続の為には造反者の暗殺すら厭わぬ父のやり方に長く反発してきた自分は、しかし同時に、曇りなき光明の道を歩むだけでは隊を導けないということを身をもって教わってもいたのだ。長く病を患っていた父は、いつかこうなる日が来ると分かっていたからこそ、次代を担うべきラジュリーズに様々な試練を課してきたのかもしれない………広いベッドに横たえられた物言わぬ亡骸を前に、ラジュリーズは万感の思いを込めて頭を下げた。
天晶暦856年の秋は瞬く間に過ぎた。一定期間喪に服した後、世襲制の習わしに従い父の爵位を継いだラジュリーズは、サンドリア国王デスティン・R・ドラギーユの名において正式に王立騎士団鉄鷹騎士隊の隊長に任命された。就任を祝い連日のように訪れる来客への対応、隊の再編成に相次ぐ軍事演習。軍服を脱げば脱いだで昼はバルマ家の領地の視察、夜は男爵として社交界に顔を出す必要もある。やらなければならないことは山のようにあった。
ラジュリーズが再びラヴォール村を訪れたのは年が明けた857年の2月のことだった。
吹きすさぶ風雪がうなりをあげるジャグナー森林。従騎士の一人も連れず、吹雪の吹き荒れる中をただ一人きりでやってくるラジュリーズの姿を遠目に確認したラヴォール村の自警団の一員は、見え隠れする薄暗い影をアンデッドか何かと勘違いでもしたのか、村の入口に設置された物見やぐらの上から文字通り転がり落ちると、一目散にマヤコフの住む家を目指して駆け出していった。
「なぁによう、せっかくのお夕食タイムに………あっつあつの美肌スープが冷めちゃうじゃない!!」
ぶちぶち文句を言いながらも足早に家を出てくるマヤコフに、まだ若い自警団の団員は先に立って村の入口へと通じる道を駆け戻りながら、
「で、でも団長、こんな吹雪の中を一人きりで来るなんて正気の沙汰じゃないっすよ? お化けとかだったらどうするんすか!!」
「こンのお馬鹿!!」
マヤコフに後頭部を思い切りはたかれ、団員が思わず首をすくめる。
「だったらなおのこと、アンタが門を離れちゃダメでしょうが!!」
「だだだだってえぇ」
「あぁもう、お風呂上がりだってのにお洋服も髪も雪でべしゃべしゃだわ。これで村に来たのがただの旅人だったら承知しないからね!!」
「そんなぁ…」
「んー、そこはもっと言い返してもいいんじゃねえか? こんな吹雪の日に部下を見張りに立たせておいて、自分だけぬくぬくメシ食ってんじゃねぇってな。」
呆れたような男の声に、マヤコフがぴくりと片方の眉を上げる。
「あ〜ら、ご挨拶ね。言いたかないけどアタシ二日も徹夜続きで疲れてんの!! アンタこそこんな時間に何しに来たのよ、ラジュリーズ」
「こ、これはバルマ卿……!!」
若い団員が慌てて姿勢を改め、閉ざされていた門戸を開きにかかる。
入口の巨木にもたれかかっていたラジュリーズは、両手を広げると大袈裟に溜め息をついた。
「何って、晩メシ食いに来たに決まってんだろ。さっさと家に案内しろよ、マヤコフ」
ギュ、ギュ、と固い雪を踏みしめる音が響く。マヤコフの家に着くまでの短い道のりの間、二人は無言だった。丁寧に雪かきのされた通路を先に立って歩いていたマヤコフは、手にしたカンテラの灯りがぼうっと周囲を照らし出すのを横目に見ながら、ちらりと背後を振り返った。
肩にはおった厚手の外套のせいでよくは見えないが、ラジュリーズが身につけているのは軍服でも甲冑でもないようだった。それならばやはり公務ではないのだろう。マヤコフは肩をすくめると視線を前に戻した。
「先に村長の家に行かなくていいの? 村に来るの久しぶりでしょ」
家に着き、玄関の扉を開けながらマヤコフが問いかける。
「あぁ、今夜はプライベートだからいいんだ。どのみち村長とは北方の拠点に送る支援物資の件で後日正式に会わなきゃならん」
「そう。………忙しそうね、ラジュリーズ」
「まぁな。」
何気なく呟きながら家に入り、雪に濡れた重い外套を脱ぎかけたラジュリーズは、目の前のマヤコフが自分の足元にふわりと音もなくひざまずくのを目にし、動きを止めた。
部屋の奥でパチパチと暖炉の炎がはぜている。あたたかな赤い光を片頬に受けながら、マヤコフは静かに頭を垂れた。
「バルマ卿。お元気そうで何よりでございます。ご尊顔を拝する栄誉を再び賜わりこのマヤコフ大悦至極に存じます」
厳かな声でマヤコフが言う。
「まずは此度の爵位相続、並びに鉄鷹騎士隊隊長へのご就任を言祝ぎ、謹んでお祝いを申し上げます。数々の栄光とともに燦然たる歴史を刻み続ける鉄鷹騎士隊も、貴殿のご活躍により必ずや更なる飛躍を成し遂げられることでございましょう。」
「──────ありがとう」
低い声で呟いたラジュリーズは、すっと目を細めると手にした外套を衝立ての上に放り、窓際に歩み寄ると足元のソファにぼすっと身体を落とした。
「………で? 気は済んだか?」
「ふふ」
ラジュリーズのぶっきらぼうな問いに、マヤコフは含み笑いとともに床から立ち上がった。
「まぁね。一応のけじめってやつ? アンタはお偉い男爵様、アタシはしがない流しの踊り子。それだけは忘れないようにしようと思ってね」
「どの口でしがないとか言うんだかな………」
ぽりぽりと頭をかきながらラジュリーズがぼそりと呟く。
「そぉね、アタシも実はそう思ってたとこよ。前言撤回、華麗な踊り子ってことにしときましょ」
マヤコフはにっこりと笑うと傍らのチェストを開け、乾いたタオルをラジュリーズの胸元に放ってよこした。
「スープをあっためなおしてくるわ。ほら、濡れた髪をさっさと拭きなさい。風邪ひくわよ」
「へいへい」
「男爵様はへいへいとか言わないの!!」
「へい」
首をすくめたラジュリーズが手にしたタオルでガシガシと赤い頭髪を拭き始める。
そのラジュリーズの手がふと止まった。首筋の辺りに何者かの視線を感じる。マヤコフのいる台所とは反対の方角にある隣室への扉が細めに開き、その隙間からこちらの様子を伺っている者がいる。
「──────…」
ラジュリーズはタオルを首に引っ掛けると、扉に背を向けたまま顔だけでちらりと背後を振り返った。
「誰かいるのか?」
低く問いかける声に、扉の向こうでビクッと震える気配がある。一瞬眉をひそめたラジュリーズは、しかし次の瞬間、何かに気付いたようにフッと眉尻を下げた。
「…ひょっとして、あん時の坊主か?」
緊張を解いたラジュリーズが扉の方に向き直り、床に片膝を落として明るい声をかける。すると、目線が低くなったことに安心したのか、パタンと音を立てて扉が開き、淡い水色のワンピースに身を包んだ少女がゴムまりのような勢いで飛び出して来た。
「うおっ、………オイオイ、しばらく見ないうちに随分とかわいらしくなっちまったじゃねぇか」
首っ玉に抱きつかれたラジュリーズが嬉しそうな声を上げる。ほんの数ヶ月前には棒切れのようにやせ細り、性別の区別すらつかなかったあの少女が、今ではふっくらと丸みを帯びた体つきになり、つやつやと輝くやわらかな頭髪をなびかせながらラジュリーズの胸に赤い頬をこすりつけてくる。
どうやら少女はラジュリーズのことを覚えていてくれたようだ。半年前この村に連れてきて以来、忙しさにかまけて一度も往訪することのできなかった自分自身を思い返し、ラジュリーズはかすかに胸を痛めた。
台所の入口からマヤコフが機嫌の良さそうな顔を覗かせる。
「でしょお? このアタシが精魂込めて育ててる可愛い妹を坊主なんて呼んだらバチが当たるんだから!! 今はポーシャっていう立派な名前があるのよ」
「へぇ、お前が名付けたのか」
「ふふん、三日三晩悩みに悩んだ末に決めた渾身の名前よ!! どうよ感想は」
「悪くねえな。それに、ずいぶん元気そうになった」
大きな手でポーシャの頭を幾度も撫でながらラジュリーズが言う。
「それだけじゃないのよん」
手にしたおたまを左右に振りながらマヤコフは得意気にニヤリとしてみせた。
「それだけじゃないって………何が?」
「ふっふっふ。見せておやり、ポーシャ」
マヤコフの声を合図に、ポーシャはラジュリーズの首から両手を離すと、やや離れた床の上にきちんと両足を揃えて立った。
「ん……?」
不思議そうな顔で見つめるラジュリーズに無邪気な笑みを投げると、ポーシャがスッと背筋を伸ばし、優雅な仕草で両手を宙に掲げてみせる。
ふわっ、………
やわらかな指先が大きく円弧をえがき、夕焼け色の髪が広がった。ワンテンポおいて小さな身体がステップを踏み、伸びやかに空中でターンする。あたかも彼女にしか聴こえない旋律が流れているかのように、無音の世界からあふれだす優雅なリズムが周囲の空気を波打たせ、たおやかな四肢が驚くほど表情豊かに宙を舞った。無論未完成ではあるのだが、見る者を惹き付けるなめらかな動きの連続に、ラジュリーズの視線が釘付けになる。
台所から姿を現したマヤコフが、余計な物音を立てぬよう注意を払いながらラジュリーズの傍らに歩み寄った。ラジュリーズがそれに気付き呆然とした顔でマヤコフを見上げると、マヤコフは、ちゃんと見てあげて、というようにポーシャの姿をそっと指差してみせる。
舞うことが楽しくて仕方がないというオーラを全身にまといながらポーシャが短いヴァリアシオンを踊りきり、最後だけは子供らしい仕草でスカートの裾をつまんで丁寧にお辞儀した。マヤコフが満足そうに微笑みながら拍手を送ると、ぱっと顔を輝かせたポーシャがマヤコフの元に駆け寄っていく。
「よくできたわね。上手になったわよ、ポーシャ」
「…驚いたな」
ぽかんと口を開けて一部始終を見守っていたラジュリーズは、ようやく口を閉じると呟くように言った。
マヤコフは足元に抱きついてくるポーシャの頭を撫でながらニヤリと笑い、
「まぁ、なんといってもこのアタシの妹だし? 美しいものを毎日眺めていたら、自分も美しくなりたいと思うのは女のサガってもんなのよ。………といいたいところなんだけどね………。」
「ん?」
マヤコフは床に膝をつき、ポーシャの頬にそっと片手を添えた。
「努力に努力を重ねて踊りの腕を磨いたアタシがこんなこと言いたかないけど、この子の場合はいわゆる天賦の才ってやつなのかしらねぇ。もちろん型を教える必要はあったけど、もうなんていうの、スポンジがみるみる水を吸い上げるみたいに上達していくのよ。この子にとってはダンスを踊ることが周りとコミュニケーションを取る手段なのかもしれないわね。」
ラジュリーズはその言葉を聞き、マヤコフの陰に隠れて恥ずかしそうにこちらを見ているポーシャに視線を落とした。
「コミュニケーション…か………。ポーシャはまだ喋れないのか? 普通に声を出して笑ったりはしてるみてえだが」
マヤコフは肩をすくめ、
「お医者様いわく、無理につつき回さない方がいい、だそうよ。時期がくれば自然と喋るようになるだろうって。今、この子は色んなものを取り戻している最中なのよ。女の子らしい生活とか、暖かい家庭とか、家族とか。たとえそれが血のつながったものでなくてもね。」
マヤコフのその言葉に、ラジュリーズはふっと表情を崩すと、穏やかに口を開いた。
「ありがとな、マヤコフ。やっぱりお前に預けて正解だった」
「やぁね、当たり前でしょそんなの。お礼は言葉じゃなく目に見えるもの、手に取れるものでお願いね。さ、お食事にしましょ」
「しっかし妬けちゃうわねー。毎日面倒見てんのはアタシだってのに、何でこうもアンタにべったりなのよ」
焼きたてのパンを籠から取りながら、マヤコフがぼやく。
ラジュリーズは自分の膝の上に陣取ったポーシャとじゃれあいながら機嫌良さげに言った。
「小さくたってオレの男っぷりの良さは分かるんだろ。なぁポーシャ〜」
「ムキー、こんな田舎にも噂が届くくらい社交界で浮名流しまくってるくせに!! アンタがロリコンだって噂広めてやろうかしら」
「んー、別に構わないぜ? ちったぁ言い寄る女が減ってくんねぇと身体がもたねえ」
「不潔よッ!! ポーシャ、そのニヤけたツラに頭突きをかましておやりなさい!!」
「ポーシャはそんな真似しねえって……うおッ、いってぇ!!」
本当に頭突きを喰らってしまい、ラジュリーズが大袈裟に顎を押さえた。してやったりといった顔でポーシャが無邪気に笑い転げる。
マヤコフはニヤニヤと笑いながら、
「むふふ、アタシの教育を甘く見るんじゃないわよ。ポーシャ、そいつが鼻の下伸ばしてたら遠慮なくヤッちゃっていいんだからね?」
「ひでえ、変なコト吹き込むなよ。ってか、ポーシャ本気で妬いてるっぽい………?」
「当たり前でしょ。小さくたってレディはレディ、他の女の話なんかされたくないわよねぇ」
「モテる男はつらいぜ、まったく」
「ポーシャ、もう一発やっていいわよ」
マヤコフの指示にポーシャが目を輝かせるのを見て、ラジュリーズは慌ててポーシャの小さな頭を抱え込んだ。
「そういや、お前が徹夜なんざ珍しいよな。村でなんかあったのか?」
ラジュリーズはラヴォール村の入口で聞いたマヤコフの言葉を思い出し、スープを口に運ぶマヤコフに訊いてみた。マヤコフは眉を上げるとナプキンで口元を軽く押さえ、
「あぁ、イルヴォレール様がちょっとね。お身体を痛めてしまわれたので、泊まり込みで看病してたのよ。」
「クスロー卿が?」
ラジュリーズは眉をひそめた。イルヴォレール・S・クスロー卿といえば長年に渡り王立騎士団を率いてきた元団長であり、現サンドリア王国でも十指に数えられる生ける英雄の一人である。数年前に家督を嫡男に譲ってからは隠居と称してラヴォール村に移り住み、悠々自適の生活を送っていると聞いていたが………。
「何かヤバい病気なのか? 泊まり込みなんてよっぽどだろ」
「ん〜、そういうんじゃなくてね。孤児院の子供達が外で遊んでいた時、崖から足を滑らせた子を身を挺して庇ってくださったのよ。お陰で子供は怪我一つなくすんだんだけど、イルヴォレール様はお足を痛めてしまわれて………。やっぱり責任感じるじゃない? だからご自由に動けるようになるまでお家の中の面倒を見て差し上げようと思って」
「クスロー卿らしいな。明日あたり見舞いがてら顔出してみるか」
「そうしなさい、きっと喜ぶわ。大体ねぇ、もっとこっちに顔を出すべきなのよ、アンタは」
マヤコフの咎めるような口調にラジュリーズは肩をすくめ、
「それはしゃーないだろ。忙しかったんだぜ、これでも」
「どうかしらね。バルマ家の新しい男爵さまは社交界でモテモテらしいじゃないの。夜の方がお盛んなのは『忙しい』って言わないのよ、普通は」
「やけにつっかかるなぁ。アノ日かよ」
「んなわけないじゃないッ、嫌味な奴ね!!」
ぷんすかと眉を吊り上げるマヤコフを見て、ラジュリーズがくっくっと笑う。
「…そういえば、アンタが社交界デビューしたら訊いてみようと思ってたことがあんのよね」
オーロラソースを添えた熱々のバタリアキッシュを手早く小皿に取り分けながら、さもついでにといった風情でマヤコフが告げた。
ラジュリーズは手にした白パンにセルビナバターを塗りながら首を傾げ、
「なんだよ」
「なんだよってアンタ、アタシが社交界ネタで知りたいことっていったら一つしかないわよ!! 最近あのお方は宮廷晩餐会にお見えになっているのかしら?」
「はァ…? あのお方って?」
「銀髪の貴公子、ミュゼルワール様に決まってるじゃない!!」
ぶは、とラジュリーズが派手に咳き込むのにも構わず、マヤコフは両手を揉み絞るとくねくねと身体を動かし、
「素敵よねぇ、あの顔、あの声、あの佇まい………!! 爵位を継いだのはアンタより何年も前なのに、晩餐会や舞踏会の類いにはほとんど顔をお出しにならないっていうじゃない? ねぇねぇ、アンタ直接お会いしたことはあるの?」
「あのなぁ……」
膝の上に座ったまましきりに手をのばしてくるポーシャに白パンを分け与えながら、ラジュリーズが溜め息をつく。
「赤狼騎士隊の隊長だろ? あいつの隊なら辺境に出ずっぱりで滅多に帰還すらしねえよ。少なくともオレが隊長になってからは一度も顔を見てねえ」
「そうなの? 残念ねぇ」
心底がっかりといった風情でマヤコフが肩を落とす。
「お前こそ間近で見たわけでもなかろうに、なんでそんなアイドル扱いなんだよ。あいつそんなに名が売れてんのか」
「あらやだ、知らないの? 王都の娘達の間ではあの方の肖像画が飛ぶように売れてるのよ。かくいうアタシもワインの仕入れ業者に頼んで一枚みつくろってもらっちゃったわ〜。眉目秀麗、高い教養、寡黙にして剣の達人、あの方こそ理想の騎士様ね!! 」
「なんなんだ、その脳味噌に何かわいてる設定は。つーかあのヤローそんなに女子に人気ありやがったのか……」
ラジュリーズが呻くように言うのを耳ざとく聞きつけ、マヤコフが細い眉を吊り上げる。
「やだ、やっぱり面識あるんじゃない!! ねぇねぇ、あの方ってダンスには興味おありになるのかしら?」
「そんなん知るわけねー」
ラジュリーズはぐったりと脱力しながら投げやりに言った。
「やぁね、自分よりモテるからって嫉妬しちゃって。いいこと? ラジュリーズ。アンタにはストイックさが足りないのよ。いい女と見れば片っ端から口説きにかかるようじゃダメ」
「なんでだよ、いい女がいるのに口説かないほうが失礼じゃねえか」
「…アンタってほんっと女心を分かってないわねぇ…。そんなんじゃいつまでたってもミュゼルワール様に水を開けられっぱなしよ?」
しみじみとマヤコフにそう言われ、ラジュリーズは一瞬、半年前の出来事を口にしようかという誘惑にかられた。
(「少なくともそれはオレの役目じゃねえ。違うか?」)
(「そんなしょっぺぇガキ相手にいちいちサカッてんじゃねえよ。王都はもうすぐなんだ。顔面陥没したまま一生過ごしたくなけりゃ隊列乱すんじゃねえ………行くぞ」)
自分が実際に目にしたミュゼルワールの姿は、王都の娘達の間に流布しているらしい清廉潔白な騎士のイメージとは随分かけ離れているようだった。──────だが、腹いせにそれらを口にするのは下らない行為だ。ラジュリーズは自分の膝の上にちょこんと座り、両手に抱えたカップに口をつけて一所懸命パンプキンスープを飲んでいるポーシャに視線を落とすと、はぁ〜っと大きく溜め息をついた。
「いいんだ。オレにはポーシャがいるもん。」
ポーシャのさらさらの頭髪の上に顎を乗せて小声でぼやく。それに気付いたポーシャが両腕を上げ、手にしたカップをラジュリーズの口元に差し出してきた。
「ん、あんがと。おー、うまいなこのスープ」
「……ネタじゃなく真性のロリコンなのかしら……。」
青ざめたマヤコフが口の中で呟いたが、ラジュリーズの耳には届いていないようだった。
* * *
【これはお前の獲物だ、ミュゼルワール………】
【そこな者をそなたの生命の糧とするがよい。我はそなたの覚醒を待っている………】
ズヴァール城──────
噴き上げるトーチの炎が漆黒の闇を焦がす。チリチリと舞う火の粉がすっと空に散っては音もなく消えていく。
どれくらい、時間が経ったのか分からなかった。
ふと、自分が立ちつくし手の平を見つめていることに、ミュゼルワールは気付いた。
なぜそんなものを見つめているのか、よく分からなかった。焦点が合った時、目の前にあったのがそれだったからかもしれない。
指先に乾いてこびりつく赤黒い液体がなんなのか、ミュゼルワールには判断がつかなかった。
視線を下に落とす、──────
足元には、崩れ落ちたレオノアーヌの姿があった。
(……レオノアーヌ……?)
レオノアーヌの髪は光を失ったようにくすんでいる。力なく床に置かれた四肢、表情の抜け落ちた人形のような顔。
目を引くのは、鍛えられた首筋の筋肉に沿って深々と穿たれた、真新しい裂傷。
未だに鮮血を滲ませるその傷跡をじっと見つめていたミュゼルワールは、急に自分の手が震え出すのを、他人事のように見下ろした。
──────レオノアーヌの隣に、すとんと両膝をつく。
「……あ……」
おそるおそるのびる指が、触れることをためらうようにレオノアーヌの上で揺れる。
不気味な程に蒼白なレオノアーヌの顔──────
「目… を………、 開… け …て… く れ─────…、 ……レ… オ ノ… ア………… 」
名を呼びながら、それが紛れもなく人間の言葉であることをミュゼルワールは呪った。……なぜ、理性はまだ己の内にある──────?
人としての理性、人としての記憶。いっそのこと全てを忘れて獣化してしまえたなら、どんなに楽だっただろうか。
(なぜ……オレを殺さなかった、レオノアーヌ………)
側にいる限り、自分はいつの日かこの男を手にかけてしまう。その身を喰らい、血潮を吸い尽くし、己が生きる為の糧としてしまう。本当は最初から気付いていたのだ………おそらくはレオノアーヌも。
ただ、互いに気付かないフリをしていたというだけで。
自分に、闘えと──────人であるために闘えと言ってくれた男を犠牲にすることだけは、してはならないはずだった。
「ぁ──────ア…ッ」
震える手で顔を覆う。その手を染めるどす黒い液体がなんなのか、今はよく分かる。
「…っあァああぁあああああああぁああ!!!!」
絶望に満ちた叫び声が尾を引いてこだまし、それに呼応するように周囲の闇がきしみを上げて歪んだ。鼓膜をつんざく不協和音が、追いつめられ錯乱したミュゼルワールの意識を激しくかきむしる。
何かが、始まろうとしていた──────五感を突き上げるすさまじい違和感が容赦なく全身をえぐり、成す術もなくミュゼルワールは地に打ち据えられる。
【…最後の仕上げはそなた自身の手で行う必要があった。その意味が分かるか? ミュゼルワール】
脳裏に響くのはかつて耳にしたノスフェラトゥの言葉だ………自分はいつ、その言葉を聞いたのだったろうか。──────奴らに捕われていた時? それとも、たった今?
【我が血を分け与えただけでは、契約の成立とはならぬ。与えられた贄でなく、自らの意志で人の血をすすり、その命を喰らうこと。それを成し得た時、そなたは真に我が血族の一員となるのだ。…求めよ、ミュゼルワール。その身を焦がす乾きこそは、そなたを永遠なる命、終わりなき陶酔へと導くものなのだ………】
脳内に直接届き、頭蓋骨を軋ませながら幾重にも反響するその声に、ミュゼルワールは両手でこめかみを押さえ悲痛な呻き声を上げた。頭が割れるように痛い。いや、身体中どこもかしこも、みしみしと音を立てて砕けそうなほどに痛い。
冷えきった身体の中で、取り込んだレオノアーヌの血が血流という血流を辿り、うなりをあげて狂ったように体内を駆け巡り始めた。細胞の一つ一つが蠢動し、別のなにものかへと変貌を遂げてゆく。今までとは決定的に違う何かを感じ取り、ミュゼルワールの全身がゾッと総毛立った。
本能が恐れている──────これから起ころうとしていることに。
【我はこの時を待っていたぞ、ミュゼルワール………!!!】
ノスフェラトゥの勝ち誇った声が辺りに響き渡り、同時にミュゼルワールの背中を覆う逞しい筋肉がメリメリと音を立てて膨れ上がった。明確な違和感にミュゼルワールが目を見開く間もなく、隆起した筋肉に二つの亀裂が不意に走り、ぐちゅりと生々しい音を立てて裂けた肉がめくれ上がっていく。
「──────ァ…アァ……ァ」
己の身体が内側からゆっくりと裂けていく、その筆舌に尽くしがたい苦痛に、ミュゼルワールは床についた四肢を震わせて大きく喘いだ。もはや動くこともかなわず、地面に這いつくばったまま硬直した身体をブルブルと震わせ、ただひたすらに耐える。背中の肉を裂き、ぬらぬらと血をしたたらせながら生えてくる硬質な何か──────いびつに折りたたまれた二本のそれは、赤黒く濡れた皮膜を鈍く光らせながら徐々に形を変え、大きくしなやかなあるものを形作っていく。
【そなたの翼は赤いのだな、ミュゼルワールよ………素晴らしい。我が血肉を与えた同胞は数あれど、深紅の翼を持つ者は稀だ。今宵は我が一族にとっても特別な日となりそうだな。】
満足そうに告げるノスフェラトゥの声を聞き、ミュゼルワールは己の身に起きていることの全てを悟った。
黒灰色の床をかきむしっていたミュゼルワールの指が、すぐそばに横たわるレオノアーヌの髪に触れる。ミュゼルワールは頭を激しく振り仰ぎ、地に伏したレオノアーヌの横顔を食い入るように見つめた。
(お前が望んだのは、こんな結末だったのか? …レオノアーヌ)
(オレは……こん…な………コトのために……ッ、………お前を犠牲にしたってのか………!?)
アッシュグレーの髪に指を絡め、ミュゼルワールが悲痛な表情を浮かべる。
(…なんとか言えよッ、レオノアーヌ──────!!!)
ミュゼルワールの声にならない叫びが辺りの空気を揺るがした、その時。
不意に、壁に立てかけてあったゴールドアルゴルが、──────キイィィン──────、とうなりをあげて細かい振動を放ち始めた。
【む、………】
ノスフェラトゥが不審そうに視線を向ける。
キィィイイィィ──────ン…
キイィィ──────ィィィイ──────ン
人間の耳に感知できるギリギリの高音を放つゴールドアルゴルは、明らかに別の何ものかと共鳴を起こしていた。……ドクン、はっきりと、力強い心音がミュゼルワールの耳に届く。
ドクッ、……
ドクッ、………
その音は横たわるレオノアーヌの身体から響いてきていた。ミュゼルワールが目を見開く。
レオノアーヌの全身に浮かび上がる赤黒い斑紋。剥き出しの上半身を埋め尽くす斑紋が、ゴールドアルゴルの共鳴に応えるようにざわりとうごめき、褐色の肌を浸食する。
レオノアーヌの心臓が力強く脈を打つのが、ミュゼルワールにははっきりと感じ取れた。──────自分の体内にも同じ脈動が走り、荒々しく全身を突き抜けていく。ミュゼルワールは自らの喉元を両手で掴み、額を床にこすりつけて大きく喘いだ。共鳴しているのはレオノアーヌと彼の剣だけではない。自分の身体もだ。
渦を巻く血流が体内を駆け巡り、レオノアーヌの鼓動に呼応するように激しく燃えたぎる。冷えきった身体を溶かしつくす、目眩のするような熱。
そう、自分は、レオノアーヌの血を吸った。
ミュゼルワールの背中から生じた禍々しい翼が、不意にドロッと音を立てて溶解した。思わず身体を硬直させるミュゼルワールを見下ろし、ノスフェラトゥが低い声で呟く。
【ほう、ここまで進んだ覚醒を食い止めるとは………有り得ぬことだが、しかし………】
自分の体内で暴れ回るレオノアーヌの血が、暗い宿命を背負っていることをミュゼルワールは知らない。だが、ノスフェラトゥには思い当たるフシがあったようで、ふむ、と頷くとノスフェラトゥは独り言のように呟いた。
【相剋の血、か──────。オーク共の話を聞いた時は一笑に付したものだが、よもや本物であろうとは…な。これは予定を大幅に書き換えねばならぬかもしれぬ………】
ノスフェラトゥの気配がすぅと遠のいた。顔を振り仰いだミュゼルワールは、姿を半ば闇に溶かしたノスフェラトゥが、不気味な笑みを口元に浮かべているのをはっきりと見た。
【美しき深紅の翼も今はお預けだ、ミュゼルワール。口にしたのが相剋の血と分かった以上、そなたの身体に起こる変化はもはや我にも想像がつかぬ。無事に我が同胞となれればよいのだがな。】
【な……? それは、どういう………】
【また会おう。次に相見えるのは儀式の場だ、楽しみにしておけ……】
【………!! 待て、ノスフェラトゥ!! 相剋の血とはなんだ!!!】
鋭く叫ぶミュゼルワールをあざ笑うかのように、ノスフェラトゥの気配は完全にかき消された。
しばらく暗い空を睨みつけていたミュゼルワールは、はっと気付いたように背後を振り返り、横たわるレオノアーヌの傍らに膝をついた。
レオノアーヌの全身に浮かんでいた斑紋はいつの間にか消え失せ、ゴールドアルゴルも沈黙を取り戻している。だが、そのことに気付く余裕はミュゼルワールにはなかった。
「おい!! ………レオノアーヌ!!!」
剥き出しの肩を両手で掴み、がくがくと揺さぶる。レオノアーヌの身体に反応はなかった。
「目を開けろ!! ……生きてるんだろ、おい!!」
そうでなければ、先程の心音も、確かな脈動も、説明がつかない。………それとも、自分の中に取り込んだレオノアーヌの血が、ゴールドアルゴルの響きに共鳴しただけなのだろうか………?
「レオノアーヌ──────頼む……」
ミュゼルワールはレオノアーヌの肩を離すと、冷たい床に拳をつき、震える声で呟いた。
「なに──────泣 いて… んだ、よ………」
穏やかな声が足元で響いた。
ミュゼルワールは目を見開いた。
レオノアーヌの、瞬きする瞳が確かに見えた──────青い瞳がゆっくりと動き、ミュゼルワールの姿を視界に捉える。
「あんたでも…そンなツラ……すんだな」
ミュゼルワールの顔をぼんやりと見上げたまま、レオノアーヌは呟いた。
「泣いてなんか、…ねえよ」
視線を反らすこともできないまま、硬い声音でミュゼルワールが言う。
「あっそ……素直じゃ…ねェなぁ………。」
床の上に横たわる身体がわずかに身じろぎする。どうやら動こうとしているらしいが、まるで力の入らぬ四肢にレオノアーヌがかすかに苦笑を浮かべる。
「あー…、動……か… ね………や…。 ……吸い過ぎ、だっつの。人の…好意 に……つけ込み…やがって………。」
「…レオノア……ヌ」
「起こせ………よ。」
自力で身体を起こすのを諦めたレオノアーヌが、ふうっと息を吐きながら瞳を閉じた。
「…………ッ!!!」
ミュゼルワールは手を伸ばし、レオノアーヌの上半身をすくいあげると、──────無意識のうちにその頭を自分の胸に押しつけた。ほんの一瞬、わずかなぬくもりを感じ取ると、すぐに身体を離し、肩を貸して立ち上がった。
朦朧としているらしいレオノアーヌがそれに気付くことはなかった。
* * *
「オレは遅かれ早かれ魔に呑み込まれるぞ………」
ミュゼルワールが不意に呟いた。
闇天候の続く空。夜明けまではまだ遠い。
行くあてなどなかった。だが、狂気に駆られ危うくレオノアーヌを殺しかけたあの場所に長く留まるのは耐えられず、ミュゼルワールはまともに動けないレオノアーヌを連れて強引に移動を再開していた。
ゴールドアルゴルは今はミュゼルワールの手中にある。レオノアーヌの血を喰らったせいか、ミュゼルワールが触れても魔剣は何の反応も示さず、ただ黄金の輝きを放つのみだった。
この時間帯に正気を保っていられることの意味を、ミュゼルワールは痛いくらいに噛みしめていた。身体が驚くほど軽い。翼の溶解した背中は肉の裂け目もとっくに塞がり、まるで何事もなかったようになめらかな皮膚を見せている。
レオノアーヌに肩を貸し、ゆっくりと歩を進めるミュゼルワールは、怪訝な面持ちで自分を見上げるレオノアーヌの視線に気付いても、あえて前方を見据えたままでいた。
「あ…?」
「オレの身体のことはオレが一番よく分かる……奴が不可逆といったのはハッタリじゃねえ。オレはいずれお前らの敵になるだろうと言ってるんだ。」
この身体が二つに裂け、深紅に濡れた翼が生えてくるのを、レオノアーヌは目にしていないはずだった。だが、いずれその時は訪れる。──────それが分かっているからこそ。
だからあの時、と言いかけて、ミュゼルワールはふと口をつぐんだ。
(「どうせ明日になりゃオレは何も覚えちゃいねえんだ。今こうしてお前と話してることすら、まともに覚えていられるか分からねえ。」)
脳裏に甦ったのは、ほんの数時間前に自らが口にした言葉だった。だが、自分は覚えている………何もかも。夜のうちに起きた出来事の全てを、ミュゼルワールは手に取るように記憶していた。魔に堕ちている自分と、そうでない自分との境い目が曖昧になってきている。身体が新たな段階へと変貌を遂げてしまった今、夜の記憶が抜け落ちるという現象はもう二度と起こらないのかもしれない。
ミュゼルワールは目を細め、感情を押し殺した声で静かに告げた。
「お前が優先すべきはてめぇ自身の進退だ、レオノアーヌ。お前は王都に戻ることだけを考えろ。」
「──────…」
しばらく黙り込んでいたレオノアーヌは、肩を貸すミュゼルワールの腕をぽんぽんと軽く叩くと、身振りで "離せ" と告げた。
「ん……?」
要求通りに身体を離したミュゼルワールが、一人で立てるのか? と声をかけようとした時。
不意に左頬にレオノアーヌの固めた拳が炸裂した。至近距離からタメもなく放ったにしては予想外の破壊力に、ミュゼルワールの身体がぐらりと揺れる。
「ラクしようとしてんじゃねェよ……」
前髪がばさりと目にかかり、レオノアーヌの表情を覆い隠している。
「俺とお前は共犯だ、ミュゼルワール──────テメェ一人がどうにかなりゃ済むハナシじゃねェんだよ。俺を王都に帰したけりゃ、まずはテメェが戻ることを考えな。」
はっきりと怒気をはらんだその声は、しかしミュゼルワールの耳に心地よく響いた。ミュゼルワールは苦笑する。
「まだオレに闘えってのか? 無駄だと分かってても?」
「たりめーだ、クソが」
がくりと地に膝をついたのはレオノアーヌのほうだった。大量に失血したままの身体は平衡感覚を失い、ひどい目眩と吐き気を訴えている。
「テメェは俺が生かしたんだ、ミュゼルワール。俺がそうすると決めた……だから、勝手に死ぬなんざ許さねェ。魔に堕ちるだと? だったら、その直前まで抗えよ。一片の理性も残らねぇとこまで抗い切ったら、そんときゃ俺がトドメを刺してやる。」
「…………」
「それが分かってりゃ安心して闘えんだろ?」
「…人として、か?」
ミュゼルワールの言葉に、レオノアーヌは片膝を床につき、震える身体をかろうじて支えながらニヤリと笑った。
「あぁ。違うか?」
「…そうだな。」
ミュゼルワールは抑揚のない声で呟くと、手を伸ばしレオノアーヌの上腕をしっかりと支えた。
身体を引き起こす手助けをする──────と見せかけ、立ち上がりかけたレオノアーヌの腹に思い切り膝蹴りを見舞う。
ぐぁ、とあられもない呻き声を上げ、本気で苦しがるレオノアーヌをミュゼルワールは肩に担ぎ上げた。
「てンめぇ……さんざん人の血ィ吸った上に膝蹴りくらわすなんざ鬼だろ………」
見事に力の入らない四肢をだらりとぶら下げたまま、レオノアーヌが息も絶え絶えに言う。
「さっきのお返しだ。やられっぱなしは性に合わねえんでな。」
「…クソ、かわいくねぇ…」
「そりゃ貴様のほうだ。」
──────返答がない。また気を失ったのかもしれなかった。
ミュゼルワールはぐったりとしたレオノアーヌの身体を支えると闇の落ちる通路を歩き出した。
* * *
ピチャン──────…
遠く、水音。
何もかもが暗い。
一片の光も差さない真の闇は、人間の五感を狂わせる。時折思い出したように響くかすかな水音も、どの程度の距離から届いているものか、判断がつかない。
王都に向かっていたはずのギュスターヴの一行は、途中で突然進路を変え、ジャグナー森林北端の岩壁に穿たれた巨大な扉をくぐった。それ以降のことを、ラジュリーズはおぼろげにしか思い出すことができない。…扉の内部の通路はすぐに狭くなり、チョコボの背から下ろされたラジュリーズは、拘束され身動きを封じられたまま白布を口にあてがわれ、何かの薬を嗅がされた。これから向かう場所は公には存在しないことになっているのでね──────、そう呟くギュスターヴの声が急速に遠のいてゆく。
くら、と自分の身体が斜めに傾くのを他人事のように認識しながら、ラジュリーズはギュスターヴに向かって当然の問いを口にした。
自分は国王陛下の元に連れて行かれるのではないのか、と。
口を開いたギュスターヴが、何かの言葉を発する。だが、まともに聞き取ることはできず、ラジュリーズの意識はそのまま闇に落ちた。
──────そして、今。
暗く閉ざされたその場所で、ラジュリーズはともすれば遠のいていきそうになる不安定な意識を辛うじてつなぎ止めていた。
自らの意志とは無関係に、時折身体中がひきつったように痙攣を起こす。嗅がされた薬の後遺症なのか、それともこの身体が高熱を発してでもいるのだろうか。どうやら全身を拘束されているらしかったが、自分が立っているのか、寝かされているのかもよく分からなかった。
(どこだ、…ここは………)
(なぜ、オレをこんな所に……)
(…クソッ、…早く…しねえと………手遅れになる前に、あの二人を………!!)
(……ミュゼルワール──────レオノアーヌ……!!)
「──────何か心配事でも?」
歯切れのよい声が低く響いた。
ごく穏やかに発せられたその声は、しかし、ラジュリーズの脳内で不気味な振動を伴って反響し、ギリギリと頭を締め付けてきた。やはりこれは薬の影響なのだろうか──────ラジュリーズが食いしばった歯の間から呻き声を洩らし、身体を小刻みに震わせる。
シュッとマッチを擦る音がかすかに響き、古びたランタンに炎が灯された。コツリと足音が響き、ランタンを床において近付いてきた何者かが、不意にラジュリーズの口を手の平で塞ぎ、鼻先に何かをあてがう。揮発性の薬品のツンとする刺激臭がラジュリーズの鼻孔を突き抜け、不意に意識が明瞭になった。
ラジュリーズは重い瞼を持ち上げた。積み上げられた木箱が三方の壁を囲む狭い部屋。残りの一辺には鉄格子がはめられており、その先は濡れた岩肌の覗く薄暗い洞窟へと続いている。長く日の当たらない地下に特有の、淀んだ湿っぽい空気。ランタンのわずかな灯りの届く範囲内に、動くものの気配はない。
ラジュリーズの顔から手を離し、音もなく二、三歩退いたギュスターヴが、ゆったりと振り返り深い笑みを浮かべた。
「これでお話ができるようになったでしょう。気分はいかがですが、鉄鷹騎士隊隊長殿」
ラジュリーズはボルトで床に固定され、革の拘束具の備え付けられた金属の椅子に座らされていた。両手首と胴の三ヶ所をきつく縛められている。痺れの残る手の平に視線を落とすと、ラジュリーズは幾度か指を握り込み、どうにか感覚を取り戻した。
「あんまりいいとは言えねえなぁ……。てめぇと二人きりってのが何より気に入らねえ」
「これは嫌われたものですね。ま、安心して下さい。私もあなたのことはあまり気に入っていません」
優雅な口ぶりでそう告げたギュスターヴは、ランタンの炎を片頬に受けながら冴え冴えとした笑みを浮かべた。作り笑いのよく似合う男だ──────ラジュリーズは、旧友であるヴェスティーレがこの男のことを天敵のように忌み嫌っていたのを思い出した。
「少なくともオレがてめぇに嫌われる筋合いはねぇはずなんだがな。オレやヴェスティーレがアシュメアと仲良くしてんのがそんなに気に食わねえか?」
「まさか。私が嫌悪するのはそのように粗野な口をきく行為そのものですよ、バルマ卿。野蛮な振る舞いに慣れた王立騎士団の方なら何とも思わないのかもしれませんがね。やはりアシュメアが身を置くにはふさわしくない………この戦が終わったら、彼女を無理にでも軍隊から引き抜くべきかもしれません。」
「アシュメアがそれを望んでいるとも思えねえがな。」
「あなたに彼女のことが分かるとでも?」
ギュスターヴは静かに呟くと、足元に置いたランタンを手に取り、ラジュリーズの元に歩み寄った。掲げたランタンをラジュリーズの眼前に突きつけ、声のトーンを落とす。
「まぁ、アシュメアのことはひとまず置いておきましょうか。私はあなたにお訊きしたいことがあるんです。色々とね」
「そりゃこっちの台詞だ………」
ラジュリーズはギラリと眦を光らせ、ギュスターヴの顔を睨み据えた。
「てめぇ、なんでオレをこんなとこに閉じ込めてる。軍法会議にかけるにしても手順を無視しすぎじゃねえのか?」
「…明日開かれる審問会には国王陛下もご出席なされます。獣人軍に魂を売り渡した可能性のある輩を、いきなり国王陛下の御前にお連れするわけにもいきませんのでね。」
「いいがかりも大概にしろよ。オレは王国を裏切っちゃいねえ」
「裏切り者の主張に意味があるとでも? …それに、勘違いをされているようですが、私がお訊きしたいのはあなたについてではないのです。」
ギュスターヴは手にしたランタンをラジュリーズの顔の間近に引き寄せた。チリ、と音を立ててラジュリーズの髪の先がわずかに縮れる。
「我々神殿騎士団は、もう何年も前からある罪人の行方を追ってきました。国家的な反逆者です──────その罪状が明らかになったなら、国全体を揺るがすスキャンダルになりかねない程のね。………あなたは、バティスルーク卿というかつての王国の英雄をご存知ですか」
ギュスターヴが口にした思ってもみない名前に、ラジュリーズは眉をひそめ、怪訝そうな表情を浮かべた。
「……?……十年以上前に死亡した赤鹿騎士隊の隊長だろう。それがオレと何の関係が──────」
「あなたにはなくとも、我々にはあるんです。……それと、あなたの連れの男にもね。」
「なんの話だ…?」
「猛狗傭兵団長、レオノアーヌ。あなたがラヴォール村に向かう際、伴っていた唯一の男です。我々は長年彼を監視下に置き、その行動を逐一見張ってきた。それはなぜか? ……彼こそは、過去において英雄殺しの大罪を犯したと目される容疑者だからです。」
「な、……英雄殺し…だと………」
ラジュリーズは呆然と呟いた。

