龍の系譜 PHASE1

CREW EDGE

龍の系譜





「オレが誰だか分かるか?」
 相変わらずカップの中身を見つめたまま問いかけるラジュリーズに、ミュゼルワールもそれ以上は視線を向けず、ふらりと立ち上がると料理の広げられた草地に足を向けた。
「………鉄鷹騎士隊の隊長だな。確かバルマ家の………」
「今じゃ爵位を継いでオレが当主さ。男爵なんて堅っ苦しい肩書きは性に合わねぇんだがな。」
 やや離れた草の上に腰を下ろすミュゼルワールに、ラジュリーズは魚の盛られた大振りの葉を押しやった。
「食えよ。けっこうイケるぜ」
「─────オレは」
「血が主食ってか? お前それでいいのかよ?」
 ムッとしたようなミュゼルワールにも構わず、ラジュリーズはドライベリーをかじりながら言葉を続けた。
「そんなんでどうやってあの化けモンと渡り合おうってんだ。人間はな、肉や魚食ってスタミナつけて戦うもんなんだよ。奴らに抵抗してぇなら無理矢理にでも食いな。それとも戦う気ねぇのか?」
「……ッ」
 ミュゼルワールは手を伸ばすと、岩塩に包まれスパイスの香りを放つアバイアを口に放り込んだ。
「うめぇだろ?」
 ニヤニヤと笑うラジュリーズに、ミュゼルワールはしばらく黙って咀嚼していたが、ごくりと飲み込むと忌々しそうに答えた。
「………あぁ」
 ラジュリーズが笑いながらサンドリアティーを入れたカップを差し出す。
 受け取ろうとしたミュゼルワールが、ふっと、顔を歪めると不意に身を起こし、背後の太い木の幹の陰に姿を消した。
 げぇっと、嘔吐する音が聞こえる。
 ラジュリーズはやれやれと肩をすくめた。
「…大丈夫かよ? 茶よりこっちのがよさそうだな、ほらよ」
 放られた蒸留水を、ごくごくと喉を鳴らして飲み干し、ミュゼルワールは再びラジュリーズからやや離れた位置に腰を下ろした。
「まさか本当に食えなくなっちまってんのか?」
「いや、─────」
 ミュゼルワールは口をぬぐうと、ゆっくりとかぶりを振った。
「まともな料理を口にするのが久々だからだろう。いきなりは胃が受け付けないだけだ。」
「ふぅん、………」
 ミュゼルワールは、比較的味付けの薄いマスの塩焼きを手に取り、ゆっくりと食べはじめた。


「なぜ─────何も聞かない?」
 ぼそりとミュゼルワールが呟く。


 ラジュリーズはドライベリーを宙に放っては受け止め、放っては受け止めを繰り返していたが、やがて口を開き、
「まぁ、聞きてぇことは山ほどあるんだがな、──────とりあえずは生きててくれてよかったぜ。」
 ふわりと破顔する。
 ミュゼルワールは魚を持つ手を一瞬止めると、目を細め、ラジュリーズの顔を見た。
「フン、………どうだかな。あんたはどうか知らんが、そっちの連れはオレを殺したくて仕方ない風だったが」
 視線で示す先には、身を横たえぐっすりと眠りこけるレオノアーヌの姿がある。
「こいつがか?」
 ブンカール浦でレオノアーヌがミュゼルワールに刃をつきつけたことを、ラジュリーズは知らなかった。ラジュリーズは心外そうに眉をひそめ、
「そんなこたねぇだろ。そりゃこいつは粗野だし阿呆だし基本的に能天気だが、筋の通らねぇことはしねえと思うがな?」
「だったら、そいつにとっては筋が通ってんだろうよ─────そいつがオレを殺そうとしたのは事実だ。」
「まじかよ……」
「まぁ、無理もねぇがな。あんたはどうなんだ、オレを拘束するよう命令されてきたんじゃねえのか」
 ラジュリーズは、ふっと笑うと、大袈裟に肩をすくめてみせた。
「だったら朝食になんぞ誘うかよ。」
「よくわからねぇ野郎だ………」
 ミュゼルワールは蒸留水を飲み下すと、黒パンを手に取りちぎって食べはじめた。








 結局、その朝、ミュゼルワールは少量の食事しか口にすることはできなかった。
「まぁ、上等上等。カラダ動かしてりゃそのうち嫌でも腹は減るさ。」
 料理の残りを持ち歩けるようてきぱきと包みながら、ラジュリーズが笑う。
 ミュゼルワールは立ち上がると、ラジュリーズをその場に残し、冷たい風を運んでくる湖畔のほうへと足を向けた。
 湖面は抜けるような空の色をくっきりと映し出し、さざ波ひとつたっていない。鮮やかな緑の木々にふちどられたこの湖は、波が打ち寄せる時はまるで海のように見えるのだが、どこまでも澄んだ水をたたえた青い水面は、今はまるで鏡のようにおだやかにきらめいている。


 遠くの方にうっすらとかすんで見えるのは、高い木の生い茂る孤島だった。決して渡れない距離ではないのだが、昔から様々な言い伝えのあるその孤島に、足を向けようという者はいない。
 ミュゼルワールは水際に足を止め、しばらく遠くの孤島を見つめていたが、不意に上半身の着衣を脱ぎ捨てると、ブーツを草の上に投げ出し、じゃぶじゃぶと水音を立てて浅瀬の中に入っていった。




ミュゼルワール
illustrated by Kyo@Studio D-Crew





 なめらかな水はひやりと肌にまとわりつくが、刺すほどの冷たさはない。ミュゼルワールは腰の高さまで水につかると、その心地よさを全身で感じるように、一度ざぶんと水に沈んだ。
 顔だけを水面に出し、仰向けに浮かぶと、水の中の音が全身に伝わってくる。コポコポとわきあがる透明な泡。揺れる水草、時おりすいと身体のわきをすりぬけるちいさな銀の魚。
(──────…)
 ミュゼルワールは瞳を閉じた。


 永遠とも思えるあの楔の支配から、いかにして逃れることができたのか、定かではないが、………
 ──────自分は今、間違いなく人の世界にいる。


 何かがこみあげた気がしたが、すぐに頭までとぷんと水に沈み、清冽な水で洗い流した。
 水面からきらきらと差し込む揺れる光の帯が、たゆたいながら水底へとあたたかさを伝えてゆく。
 ここに身を沈めている限り、乾きは二度とやってこない。そうとすら思えるほどに、水底の世界は静謐な美しさをたたえていた。








「レオノアーヌといいお前といい、オレの周りは水浴びが好きな奴ばっかだな。」 
 陸へとあがってきたミュゼルワールに、乾いたタオルを放りながらラジュリーズが言う。
 ミュゼルワールは濡れた長い前髪をかきあげると、タオルを空中でうけとめ丁寧に身体をぬぐった。
 ブンブンと頭を振り回して水を飛ばしていたレオノアーヌとの対比に、思わずラジュリーズが笑いをこらえる。
 ミュゼルワールが睨みつけると、ラジュリーズはあわててごまかすように、
「その肩の傷─────随分派手だな? よく左腕動かせるもんだなぁ。」
「──────これはもう治っている」
 ミュゼルワールは無愛想に言うと、拭き終わったタオルをラジュリーズに投げつけ、草の上に落ちた自分のシャツを拾い上げた。
 醜く隆起した五本の爪痕、広範囲が赤黒く変色した肉と肌。シャツの生地に隠れて見えなくなった創傷から視線を外し、ラジュリーズは肩をすくめた。
「へぇ、腕が一生上がらなくなってもおかしくねぇくらいの傷に見えるがな。……まぁいいや、こっちに来いよ。これからのことを話そうぜ。」
 ラジュリーズはすたすたと歩き出しながら後ろ手に手を振った。








 少し前に目を覚ましていたレオノアーヌは、木の幹に背をもたせかけ、短剣でアバイアの背骨のかけらを器用に削っていた。
 そうやって固い何かを削るのが彼の趣味らしい。
 足音に顔を上げると、光の差す湖の方角から、二人の男がこちらに向かってくるのが見えた。
「………」
 無言のまま背骨のかけらに視線を戻す。
 ラジュリーズは座り込んでいるレオノアーヌのかたわらに立つと、欠片を削り続けるレオノアーヌの顔を見下ろした。
「………なぁにシカトこいてんだよ。ガキかお前は」
 不意にレオノアーヌの頭を片手で掴み、わしゃわしゃと髪をかきまわすラジュリーズに、レオノアーヌはむっとして手を払いのけた。
「あにすんだよ」
「そうつんけんすんな。ようやくのお目覚めなんだぜ?」
 離れた岩の上に腰を落ろすミュゼルワールを顎でしゃくってみせる。
「…キレーなねーちゃんならともかく、そんなごっついヤローが目覚めても俺嬉しくねぇし」
「お前なぁ…」
「別に構わん。」
 ミュゼルワールは無表情に言うと、乾きかけた髪を指で崩し、前髪を散らせた。
「起き抜けにナイフをつきつけられるよりは大分マシだ。」
「っ別にあやまらねぇぞ? 俺は悪りィことしたとは思ってねぇ。」
「謝ってくれなど誰が頼んだ」
「お前らなぁ……。」
 ラジュリーズは溜め息をつくと、二人の中間に位置する草地にドサリと腰を下ろした。
「仲良くしろとは言わねぇが、せめて喧嘩はすんな。毎回間に入るのはオレぁごめんだ。」
 毛を逆立てて今にも唸り声を上げそうなレオノアーヌに指先をつきつけ、
「特にお前だ。挑発すんな、レオノアーヌ」
「してねぇよっ。」
 短剣を鞘にしまいフイッとそっぽを向く。
 やれやれと、再び肩をすくめたラジュリーズは、真顔になり二人を見上げた。


「とにかく、話を整理しよう。どうにも分からねぇことが多すぎる。オレらが知ってることは全部話す、お前も話してくれるな? ミュゼルワール」








 クォン大陸、そしてミンダルシア大陸を巡る三国の情勢、闇王軍と獣人達との抗争、獣人軍を斬り従えた闇王軍の人間への宣戦布告。ジャグナーの戦いの勃発、それに続く王都攻防戦──────。
 ラジュリーズの語るそれらの出来事を、ミュゼルワールは身動き一つせず、ただ黙して聞いていた。
「闇王軍──────…」
 一通りの説明を聞き終え、宙を見据えたままミュゼルワールが口の中で呟く。
「あぁ。お前は戦ったことがあるんだったな。部隊の中核を成す有翼の黒い魔人は、デーモン族と呼ばれてる。」
「………」
「バストゥークやウィンダス周辺でも獣人軍が一斉に蜂起し、防戦一方の展開だと聞いた──────獣人共との小競り合いなんぞ今に始まったことじゃねぇが、今回は訳が違うようだな。そもそも互いに反目しあってた各獣人共を一つにまとめあげるなんざ並大抵のことじゃねぇ。」
「王都は…無事だったんだな─────?」
 ラジュリーズは頷いた。
「腹立たしいが、王都を包囲したのがオーク軍だけだったのは不幸中の幸いと言わざるを得ねぇだろうな。闇王親衛隊と名乗る部隊の編制や使う技が判明したのは、ジャグナーの戦いで生き残ったアルフォニミル卿らが王立騎士団と合流してからだ。もしその前に親衛隊が王都に攻め込んでいたら─────、考えるとゾッとするぜ。」
 そこまで言うと、ラジュリーズはふと口をつぐみ、しばし考え込んだ。
「しかし分からねぇのはあのでけぇ翼の獣人だ………いや、獣人なのかすらはっきりしねぇが………。あれはデーモンとも違うようだな? あんなモンスターが親衛隊にいたという報告はなかったが………」
「あれは──────ヴァンピールだ。」
 ミュゼルワールが低い声ではっきりと言った。
「ヴァンピール………?」
「あぁ。そう名乗っていた。」
「………」
 ラジュリーズはすうと目を細め、宙を見据えたままのミュゼルワールの横顔を注視した。
 レオノアーヌは黙ったまま動かない。
「話してくれ」


 ──────数十分後。
「…あんまり役に立つ情報とは言えねぇなあ………。肝心の所があちこち抜けてるんじゃな。」
 レオノアーヌがぼそりと呟く。
 ミュゼルワールは首を振った。
「オレの知ったことか…。分からねえモンは分からねえんだよ。」
 ミュゼルワールの記憶は、自分の腕が腐り落ちる幻覚を見た、その直後から欠落していた。ほぼ半年に渡る記憶を持たず、意識と自我を取り戻した時は、ラジュリーズやレオノアーヌと共にブンカール浦にいたのだ。
 ただ、時折夢の中の出来事のように断片的に浮かび上がるイメージがある。そのイメージの中で自分が何をなし、何をされてきたか──────…。考えるだけでひどい目眩に襲われる。
「人の生き血を吸う魔物か………。コウモリ族…にしちゃ違いがありすぎるが………」
「ありゃ俺の見たとこアンデッドだぜ。氷系魔法をことごとくレジりやがった。」
 レオノアーヌの言葉に、ラジュリーズは顔を上げた。
「そういや、朝日が昇った途端に姿消しやがったしな………。」
「それに、エラジアから来たとも言ってたぜ。こっちの大陸にはもともといなかったんじゃねぇのかな。」
「レオノアーヌ。奴らは何を言っていた? 分かるように翻訳してくれ。」
 レオノアーヌは肩をすくめた。
「大した情報はねぇがな………」


【親衛隊の総力をもってしても従わせること叶わなかったかの力が手に入らば、人間共との争いなど瞬く間に終着するは必定─────】
【数十年ぶりに血を分け与えた同胞………】
【公爵の命令とはいえ気が進まぬことではあったが、そうとなれば話は別だ。──────人間よ、我らと共に来い。】
【血の同胞よ、覚えおけ、その歯車の動き不可逆なりと………】
【捧げよ──────生贄の喉笛からほとばしる熱き血潮を………その生命もて稀なる紅き魂(たま)に注がん、千にも及ぶ仮夜の夢をぞ終わらさん………】


 レオノアーヌの言葉にじっと耳を傾けていたラジュリーズは、拳を唇に当てると低く呟いた。
「仮夜の夢をぞ終わらさん──────…? 奴らは何かを目覚めさせようとしてるのか……?」
「さしずめコイツはそのための生贄ってとこだろうよ。」
 レオノアーヌがミュゼルワールの方を顎でしゃくってみせる。
「だったらお前は生贄二号だな。他人事みてぇに言ってんなよ。」
「うっせぇよ。大体ダンナはどうするつもりなんだ。俺らがこうしてる間にも、王命とやらを受けた本国の連中が俺らを捜し回ってんだぜ?」
「まぁそれはおいおい考えるとしてだな──────」
「悠長だなオイ!? 仮にモンスターのしつっこい追撃をかわしたとしても、俺ら行けるとこねぇじゃんかよ!!!」
「なんのことだ──────…?」
 ミュゼルワールがふと眉根を寄せる。
 レオノアーヌは人差し指をミュゼルワールにつきつけた。
「お・ま・え・が!! 原因だっつの!!! ラヴォール村でサンド兵の喉かっ切って血ィすすってたろ? アルタナ信仰の聖地たるサンドリアに化けモンの帰る場所はねぇんだとよ!!!」
「レオノアーヌ、………」
 ラジュリーズが片手を上げ、レオノアーヌを制した。
「伝えるのは事実のみにすべきだ。オレ達はこいつが捕虜を殺すところを見たわけじゃねぇ。…捕虜の悲鳴は少し前におさまっていた、もう既に死んでたのかもしれねぇ。それを忘れるな」
「ケッ……」
 レオノアーヌが足元の草を乱暴に蹴る。
 ミュゼルワールは表情を変えなかった。ラジュリーズは溜め息をつくと、
「とにかく、だ。お前ら二人はヴァンピールとやらに目を付けられてるし、オレはオレでミュゼルワールの無実を証明しなけりゃ王都には戻れねぇ。一蓮托生なんだよ、オレら三人は──────。」


 まずはミュゼルワールの体力が回復するまでここにキャンプを張ること。ヴァンピールが再び姿を現わす可能性があるため、夜は交代で見張りを立てること。
 ラジュリーズの指示に逆らう者はいなかった。


 ミュゼルワールが立ち上がった。無表情のままその場を離れようとするミュゼルワールに、
「これだけは言っときてぇんだがな。」
 不意にレオノアーヌが口を開いた。
 腕を組み、木の幹にもたれかかっていたレオノアーヌは、立ち止まるミュゼルワールにちらりと視線を投げると、
「俺はまだあんたを信用したわけじゃねえ。夜の見張りは俺とラジュリーズの二人でやらせてもらうぜ。寝首をかかれるのはゴメンだからな。」
「……好きにしろ」
 ぶっきらぼうに言い捨てると、ミュゼルワールはその場を後にした。


「…あんだよ。また説教か?」
 レオノアーヌが、傍らに残るラジュリーズを睨みつける。
 ラジュリーズは口を開きかけたが、思い直し、やれやれと天を仰いだ。
「お前さぁ、言ってることとやってることが違うのに気付けよ………」
「なんだよそれ」
 ブンカール浦でノスフェラトゥと対峙した時、レオノアーヌはラジュリーズと共に何の迷いもなく敵の前に姿を晒し、ミュゼルワールの盾となった。戦時の咄嗟の行動こそが彼の真意を表す気がするが、…レオノアーヌに言っても納得はすまい──────。
 ラジュリーズは軽く溜め息をついた。
「なんでもねぇよ。まぁオレとお前の二人で見張りをすんのは賛成だ。ミュゼルワールの身体も見かけよりゃかなり辛そうだし、回復するまでしっかり休ませねぇとな。」
「俺はそんなつもりで言ったんじゃねぇよッ。……」
「わ〜かってるって。」
 ラジュリーズはレオノアーヌの肩を拳でこづくと苦笑した。








 それから一日は何事もなく過ぎた。
 事件らしい事件といえば、料理番を交代制にしたために、不承不承料理をさせられたミュゼルワールが鳥の卵を焚き火にそのまま放り込み、派手に爆発させたくらいで──────
「爆発とかバッカじゃねぇの!? あとその消し炭はなんだよ、まさか食いモンとか言うんじゃねぇよな!?」
 死鳥族の死体らしきものが焚き火の中で黒焦げになり、ぶすぶすと煙を噴き上げている。
「生憎オレは生血でも平気なんでな…、お前らのためにわざわざ火ィ通してやってんだ、有り難く思いな」
「あんだとこの野郎!!」
「いい加減にしろよ………」
 ラジュリーズが眉間を押さえ首を振る。


 その日の夜はラジュリーズが見張りに立った。


 二日目の夜。
 一振りの両手剣を傍らの地面に置き、レオノアーヌは湖にほど近い場所で焚き火の側に座り込み、寝ずの番をしていた。
 月が煌煌と辺りを照らしている。ひんやりとした風が湖面を渡り、時折思い出したように周囲の木々を揺らしていく。
 ひそやかな梢のざわめきは、潮騒のように波打ちながら、森の木々のすみずみへと広がっていった。
 あらかじめ寝ておいたため眠気はほとんどなく、湖畔の透明な風の中、レオノアーヌはひたひたと水の打ち寄せる波打ち際をじっと見つめていた。
 湖をふちどる草や土の間を穏やかにたゆたう清浄な水は、時折小さな岩に打ち砕けては月の光を集めてきらきらと輝いている。
 どこか遠くでフクロウの鳴き声がした。


 レオノアーヌの周囲には短剣で適当に削っては放り出したアバイアの骨の欠片が散らばっていた。
 アバイアの巨大な体は大の男三人の胃袋をもってしても二日で賄い切れるものではなく、魚肉のあらかたは昼間のうちに干し肉作りの要領で保存食に変えてある。
 その日の夕食はレオノアーヌの担当だった。レオノアーヌは主に自分の胃袋の為に豪勢な料理を大量に用意し、それをラジュリーズと二人でほとんどたいらげた。
 ミュゼルワールは相変わらず少量の魚しか口にしなかったが、誰もそれについては言及しなかった。


 今、ラジュリーズとミュゼルワールは、焚き火から離れた木陰でそれぞれ眠りについている。
 レオノアーヌは地面に転がっていた骨の欠片を一つ拾い上げると、ヒュッと音を立てて湖面に放った。
 水音がかすかに空気を揺らす。波紋の広がる音すら、今なら聞こえそうな気がした。


(酒、もっと持ってくりゃよかったぜ………) 
 燃えるようなルビー色の液体を口に含みつつ、レオノアーヌがひとりごちる。
 アルコール度のかなり高いその酒は、鮮烈な熱と共に喉元をすり抜け、身体の奥にあたたかな火を灯した。もう一口と、口に含みかけるが、ふと思い直す。
 携行してきたアルミのスキットルはかなり軽くなっていた。補充できる機会があるかどうか分からない。料理酒ならばその場で合成も可能だが、何年もの熟成を要するその酒は街に戻らない限り手に入れることはできない。
 レオノアーヌは溜め息をつき、蓋を閉めるとスキットルをしまった。
 夜空に鮮やかに浮かび上がる巨大な彗星が、銀色の尾を引きながら天頂にさしかかりつつある。


(あのモンスターがアンデッドなら、仕掛けてくんのは間違いなく夜だ──────…空からいきなり来る可能性もある。気は抜けねぇな………)
 ミュゼルワールの体力が回復するまでキャンプを張るとラジュリーズは言っていたが、レオノアーヌはその真意を理解していた。
 これはヴァンピールをおびき寄せる為の罠であると。おそらくは、ミュゼルワールも気付いているのだろう。
 逃げおおせればそれで済むという状況でないのは分かっている。いずれ対峙せねばならぬ敵なのだ。ならば、いたずらに拠点を変えるよりも、ここに腰を据えて敵の出方を待った方がいい。
 自分もヴァンピールに狙われている以上、囮の一部ということになるが、囮として使われることに抵抗はなかった。レオノアーヌはためらうことなくその作戦を打ち出したラジュリーズに小気味よさすら覚えていた。
 それにしても………、とレオノアーヌはふと唇の端を歪めて苦笑した。
 この二日間、何事もなさすぎた──────。魚を釣り、水浴びをし、素材を調達して合成して。ラジュリーズと悪ふざけの応酬をし、ほとんど木陰で動かないミュゼルワールと憎まれ口を叩きあいながら。
 この昼間の緊張感のなさはなんなのだろう──────。三人が三人とも、仮にも精鋭と呼ばれる部隊を率いる将であるというのに。
 やけくそになって頬張った消し炭の脳天に突き抜けるような苦さを思い出し、レオノアーヌは再び苦笑した。


(『貴様……ら…に………王…の、墓は………、けがさせん──────…!! 絶、対………に…!!』)
 ミュゼルワールの放った言葉を、レオノアーヌはふと思い出した。


 ミュゼルワールは自分の言った言葉を覚えていないのだろうか?その後彼の口からそれに関する話が出ることは一度もなかった。
(貴様ら…ってのは、ヴァンピールのことだよなぁ、たぶん………。…王の、墓? 墓ってどこだ? エルディーム古墳か?)
 エルディーム古墳で最期の時を迎え、埋葬されることこそが最上の幸福とする一文がアルタナ信仰の教義にはある。そのためか、エルディーム古墳の地下には古くからおびただしい数のエルヴァーンの墓が築かれてきた。その多くは殉教者達のものであるが、数多のモンスターに阻まれ進行不可能なエリアの先には、古の王達の墓もあると聞く。
(墓にアンデッドなら、しっくりくるっちゃあくるが………)
 腰帯に挟んだ鞘から短剣を抜き取り、くるくると回しながら考え込む。
 その時、ふと、レオノアーヌは背後で動く人の気配を感じ取った。
(──────! )
 ぴたりと短剣の動きを止め、じっと背後を窺う。
 ミュゼルワールが起き上がっている………焚き火から離れた大きな木立の下に身を横たえていたはずのミュゼルワールが、夜陰に身を潜めるように気配を押し殺し、近くで寝ているラジュリーズを起こさぬよう足音をひそめつつ、その場を離れようとしている。
 小用を足すといった風情でないのは明らかだった。ミュゼルワールの向かおうとしているのは、北の湖畔を抜けてモンスターの徘徊する東のエリアへと続く道である。
「──────…」
 レオノアーヌは目を細め、その様子をじっと注視した。
 ミュゼルワールの姿が木々の陰に隠れ、見えなくなった。レオノアーヌは身を起こした。傍らの両手剣に手を伸ばしかけるが、大振りな剣では携行する際に音で気付かれるかもしれない。レオノアーヌは手にした短剣を握りしめると、油断なく闇を窺い、姿を消したミュゼルワールの後を追った。








 ……はぁッ……


 ……ハァ…ッ…………


 ガサガサと、荒々しく朽ち木を踏みしだく音が響く。
 ひどくもつれる足でフラフラと歩を進めていたミュゼルワールは、不意に立ち止まると身を二つに折り、全身を痙攣させながら激しく嘔吐した。
「……………ッ!!! ……ウ…ゥ………ッ」
 四肢を地につき、なおも嘔吐を繰り返す。少量の食物しか摂取していないため胃袋はすぐ空になったが、吐く物がなくなっても突き上げる悪心は収まらなかった。震える唇から糸を引く胃液を散らせながら、ミュゼルワールが獣のような呻き声を放つ。悪寒が繰り返し襲いかかる度に全身の毛が逆立ち、身体の内と外がひっくり返って内臓が全て吐き出されるような気がする──────…
 ミュゼルワールは胸をかきむしり激しくもがいた。
 ようやく、──────ようやく吐き気が収まると、血の気の引きぼうっとする頭のまま、ふらりと立ち上がる。もはや自分がどこを目指しているのかも分からぬまま、ふら、……ふら、と足を引きずる。
 ミュゼルワールの顔は不気味な程蒼白になっていた。
 熱い、──────身体の芯が燃え尽きそうに熱い。それなのに手足は氷のように冷えきっている。左手を持ち上げ、広げた指で顔を覆うと、ヒヤリとした指先に触れる汗ばんだ自分の顔が、まるで作りもののように感じられた。
(……………)
 何かを、──────そう、何かを、この身体は求めている。
 フラリと身体が傾き、ミュゼルワールの身体は樫の大木に打ちつけられた。木の幹にもたれかかりかろうじて身体を支える。はッはッと浅い息をつき、ミュゼルワールが五本の爪を自分の顔に食い込ませる。
「……ゥグウッ………ッ……ア………」
 脂汗がとめどなく滴り落ちる。
 その時視界をオレンジ色の巨大な影がよぎった。
 ミュゼルワールの姿を感知し、躍りかかったのは一匹のスミロドンだった。獰猛な牙で獲物を屠る野獣が、ミュゼルワールの身体に迫る。
 ミュゼルワールの両眼がギラリと光った。
 瞬時に身を沈め獣の攻撃をかわすと、追撃の暇を与えず背後に回り込み、両腕で人間の胴程もある太い首をホールドする。
 鋭い爪を振りかざす獣の死にもの狂いの抵抗に構うことなく、ミュゼルワールはすさまじい力で首筋を締め上げた。
 ミュゼルワールの全身の筋肉がメリメリと膨れ上がる。
 グギャッ………
 鈍い音を立て、スミロドンの頸骨が砕けた。
 断末魔の悲鳴を上げ、巨大な体が波打った後、力を失いスミロドンは地に落ちた。
 それを、虚ろな瞳で見つめていたミュゼルワールは、乱れた呼吸のまま不意に屈み込むと、スミロドンの死体を無造作に転がし、ごわごわとした長毛に覆われた白い胸部を渾身の力を込めて拳で撃ち抜いた。
 ビチャッ!!
 鮮血を飛び散らせ、ミュゼルワールの右腕がスミロドンの体に食らい込む。
 そのまま、死体に空いた穴にズブズブと腕をめり込ませると、ミュゼルワールは何かを探るように獣の内臓をかきまわした。


 ズブリと、音を立てて腕を引き抜く。肘までどす黒い鮮血に染まったミュゼルワールの右手には、いまだドクドクと脈動を繰り返すスミロドンの心臓が握られていた。


「──────…」
 心臓を高々と持ち上げる──────ミュゼルワールは顔を仰け反らせると、大きく口を開き、ボタボタとしたたり落ちる生暖かい血液をその舌で受け止めた。








 ラジュリーズは何か物音を聞いたような気がし、目を覚ました。
 さわさわと梢の揺れる音がする。しんと静まり返る夜の気配、物音は気のせいだったのか、──────
 毛布の中のあたたかな空気が眠気を誘う。ラジュリーズは瞳を閉じかけた。
 だが、ふと目を開く。


 静かすぎる──────。


「レオノアーヌ…?」
 見張りに立っているはずのレオノアーヌに声をかける。
 返事はなかった。上半身を起こすと、いるはずの場所にレオノアーヌの姿はない。
 静かに水の打ち寄せる波打ち際で、大分前に火の落ちてしまったらしい焚き火の跡が、灰の中からかろうじて白く細い煙をたちのぼらせている。
 地面に放置されたままのレオノアーヌの両手剣を見て、ラジュリーズはがばと起き上がった。
 視線をすばやく巡らす、──────ミュゼルワールの姿もどこにもない。
(しまった──────!!!)
 ラジュリーズは地を蹴ると、人けのない暗い森へと飛び込んでいった。








 レオノアーヌは太い木の幹に片手をつき、気配を闇に同化させたまま、その場に立ち尽くしていた。
(冗談じゃ……ねェ…ぜ………、オイ…………)
 やや離れた草地の上には、ビクビクと脈打つスミロドンの心臓を掴み上げ、溢れ出す血を飲み干すミュゼルワールの姿がある。
(救う……だと…………? あんな…身体になった奴を──────、救えんのか? 本当に?)
 ぎりっと握りしめた拳を、木の幹に打ちつける。
 月の光を浴びて逆光に浮かび上がるミュゼルワールの姿を、レオノアーヌは身動きもできずに見つめていた。


 ミュゼルワールはその乾きをようやく満たすことができたのか、掲げた右腕をゆっくりと下ろすと、大きく息をついた。真っ赤な心臓がその指を離れ、飛沫を散らせながら地面に転がる。
「──────…」
 ミュゼルワールはぬめぬめと血に濡れた右腕をぼうっと見下ろし、しばらくそのままでいたが、


 その、手が、肩が、かすかに震えはじめた。


「………ッ、…──────」
 ふらりと重心が崩れ、その場に膝をつく。
 地面に手をついたミュゼルワールは、ぶるぶると震える両手を持ち上げると、鮮血に染まる手の平をじっと凝視した。


 やがて、その手が、………自らの首筋にゆっくりと添えられ、
 そのまま、自分の首を、じわじわ締め上げていく。


 地に伏した身体が震えはじめても、ミュゼルワールはその手を緩めなかった。
 呼吸が不自然に乱れ始める──────ドクンッ、ドクンッ、心臓が狂ったように爆発し悲鳴を上げる…………
 額を地面にこすりつけ、鬱血した首筋をなおもギリギリと締めつけていたミュゼルワールは、──────しかし、次の瞬間、激しく咳き込み、意志に反してその手を離してしまった。その途端、酸素を求めて全身が跳ね上がり、首を仰け反らせて大きく喘ぐ。
 血に濡れて赤黒く光る手が、ぶるぶると震えながらミュゼルワールの顔を覆い、銀の髪を乱暴にかきあげたあと、空中で拳を作った。………きつく握られた拳は、しかし力を失い、弱々しく地面を打ちつけたのみだった。
「ゥッ………グゥ…ッ…………」
 食いしばる歯の間から、押し殺した悲痛な声が洩れる。


 声のない慟哭を、レオノアーヌはただ見ていることしかできなかった。


「あのヴァンピールは不可逆と言ったんだな? ミュゼルワールが元の身体に戻る術はないと─────?」
 不意に、レオノアーヌの背後で低い声が響いた。
 レオノアーヌは目を見開いた。しかし振り返ると、そこに立っていたのはラジュリーズだった。
 同じように木の幹に身を寄せ、ラジュリーズは沈痛な面持ちでミュゼルワールの姿を見つめている。
「ホントかどうかはともかく、そう言ってたな。」
 レオノアーヌが呟くと、ラジュリーズはミュゼルワールから視線を反らせ、ゆっくりと空を仰いだ。
「お前の言い分が正しいのかもしれねぇな、レオノアーヌ……」
 その声に、レオノアーヌは怪訝な面持ちでラジュリーズの顔を見上げた。
「あ…?」
「オレはあいつが元に戻れると信じて救い出したが………、間違ってたのかもしれねぇ。あんな姿を見せられりゃな。」
「…そうだな…」
 レオノアーヌが表情の見えぬ顔で呟く。
 ラジュリーズはレオノアーヌの顔を見据えた。
「オレの独断で連れ出したんだ、落とし前はつけさせてもらう。レオノアーヌ、そのナイフを貸してくれ」
「…なんに使うんだ?」
 ラジュリーズはレオノアーヌの手にした短剣に視線を落とした。
「ミュゼルワールをせめて楽にしてやりたい──────」
 苦悩に満ちた声でラジュリーズは呟いた。
「それがあんたなりの落とし前ってわけか。いいぜ、使いな」
 刃を自分に向け、レオノアーヌは短剣の柄をラジュリーズに差し出した。
 ラジュリーズが手を伸ばす。


 だが、ラジュリーズの手が柄に触れる寸前、レオノアーヌは刃を反転させると、握りしめた短剣でラジュリーズの手に素早く斬りつけた。
「なッ…!?」
 ラジュリーズの手から鮮血がパッと飛び散る。
「なにしやがるっ……」
「…わかってねぇな。ラジュリーズの野郎は夜中でも丸腰で出歩いたりしねぇし、第一、『楽にしてやりたい』なんざ死んでも言わねぇよ。」
 ラジュリーズが飛びすさる。しかしレオノアーヌの方が早く、瞬時にラジュリーズの背後を取ると首筋に短剣をつきつけた。
「ダンナならこう言うだろうさ、『魔物を喰らってでも、生きろ』ってな。──────てめェ、何モンだ」








 やわらかい地面についた、足跡が一つ。
 岩場や草地で所々途切れはするが、その足跡はまっすぐ南東へと向かっていた。
 ラジュリーズは片手剣を抜き放ち、油断なく身構えながらその足跡を辿っていった。
 倒木や落石で築かれた天然のバリケードを越え、湖の東岸に出る。波打ち際の周辺はプギルやクラブなど、放っておけば無害なモンスターしかいないが、足跡は湖を離れ、スミロドンの徘徊する危険なエリアへと続いていた。
 この足跡はレオノアーヌのものだろうか?それともミュゼルワールか──────?
 ぱきりと、小枝のはじける鋭い音がした。ラジュリーズは足を止め、いかなる音も聞き漏らすまいと、全身の神経を集中させた。
 ズザッ、………ズザザッ、
 足音──────だ。それも、重い何かが激しくぶつかりあいながら地を走るような、………
 ラジュリーズは音のする方向へと猛然とダッシュした。
 ぴたりと岩陰に身を寄せ、暗がりを窺い見る。
 ミュゼルワールがそこにいた──────巨大な黒い影と対峙しているその身体は、切り立った岩肌に押し付けられ、首筋を掴み上げられ宙吊りになっていた。ミュゼルワールを拘束する禍々しい長い爪、ねじくれた四本の角、巨大な翼──────
(ヴァンピールか─────!!)
 ラジュリーズは地を蹴った。
 首筋をギリギリと締め付ける爪を振りほどこうと死に物狂いで抵抗していたミュゼルワールが、突進するラジュリーズの姿を視界に捉える。そのミュゼルワールの視線を追うようにして、ノスフェラトゥが振り向いた。しかしラジュリーズは攻撃を避ける隙を与えず、すさまじい一撃をノスフェラトゥの背に浴びせかけた。
 ノスフェラトゥがミュゼルワールの身体を離し、翼を広げ高々と飛翔する。地面にどうっと崩れ落ちたミュゼルワールが激しく咳き込んだ。ラジュリーズはミュゼルワールを背後に庇うと、100イルムほど離れた空中に静止したノスフェラトゥに刃を向け、身構えた。
「やっぱり現れやがったか──────。」
 不敵に笑い、ラジュリーズはノスフェラトゥを睨み上げた。
「今の一撃、ちったぁ効いたみてえだな? 精霊魔法はイマイチらしいが、ガチの斬り合いが通用する相手で嬉しいぜ。」
【クックク………】
 ノスフェラトゥが不気味な笑いをゆらめかせる。
【笑止─────うぬごときの手にかかる我ではないわ………】
「なに言ってんだか分かんねぇが、とりあえず宣戦布告と受け取ったぜ。やってやろうじゃねぇか。」
 刃の先で敵の動きを牽制しつつ、ラジュリーズはちらりと背後を顧みた。
「おい、大丈夫か?」
 ミュゼルワールは喉元に手を当てたまま、地に伏して苦しげな息を吐いている。
「早いとこ終わらせねぇとな。─────くそ、レオノアーヌの奴は何してやがるんだ」
【余所見とはいい度胸だ──────…】
 ノスフェラトゥの爪が空を切り裂く。ラジュリーズの剣がひらめき、重い一撃を真っ向から弾き返す。すさまじい金属音が辺りに轟いた。
 一太刀交わしてすぐ距離をあけたノスフェラトゥは、空中に静止したままクックッと笑った。
【その太刀筋悪くない─────、しかし、所詮我の敵ではないな。】
「大体何言ってるか分かるぜこの野郎…。」
 ラジュリーズはクッと上半身を落とすと、引きつけた刃にすさまじい気合いを込めた。
「後悔させてやんぜ!!!」
 ザッと右足を踏み込み、跳躍しようとした身体は、しかし、
 不意に背後からのびた腕に羽交い締めにされ、動けなくなった。
「なッ!? ………」
【クク………】
 ノスフェラトゥはラジュリーズの正面に確かにいる──────残忍な瞳でラジュリーズを見下ろし、満足そうに目を細めている。
 ラジュリーズは振り返った。
 彼の身体を拘束しているのはミュゼルワールだった。
 先程まで地に伏して喘いでいたとは思えない程、その腕も身体も鋼のような力を持ち、ラジュリーズの自由を奪って抵抗を許さない。
「おま……、魅了──────されてんのか!? 目を覚ませッ、ミュゼルワール!!!」
「………」
 その瞳に意志の色は──────、ない。
 ノスフェラトゥがゆっくりと右腕を掲げた。広げた手の平をラジュリーズの眼前につきつける。
【コキュートスの氷土にその身を穿つがよい………永久に!!!】
 ノスフェラトゥの両眼が深紅の妖光を放つ。
 断罪の瞳──────ラジュリーズは、確かにその瞳を見てしまった。


 10………


 死の宣告のカウントが始まる。


「クッ─────!!」
 ラジュリーズはミュゼルワールの腕を振りほどこうと激しくもがいた。


 7………


 カウントが進んでいく。
 ミュゼルワールの腕は鋼鉄のように硬く、暴れるラジュリーズの抵抗など意に介する風もなくその身を拘束し続ける。


 5………


 ラジュリーズは歯を食いしばると、力任せに地を蹴った。拘束するミュゼルワールの身体ごと、背中から地面に倒れ込む。
 激しい衝撃と共に二人の身体が地面に叩き付けられると、ミュゼルワールの身体は瞬時に消え失せ、小さな黒いコウモリと化した。
(な、………)
 ユラリと、ノスフェラトゥが笑みを浮かべる。


 2………


 ラジュリーズは彗星の鮮やかに浮かぶ空を振り仰いだ。
(こいつの狙いはミュゼルワールと──────レオノアーヌだ。………二人が危ねぇッ………!!!)


 1………


 全てが、暗転した──────…。








 レオノアーヌに短剣をつきつけられていたラジュリーズが、瞬時にコウモリに姿を変え、拘束を逃れた。
「あぁ!? ………」
 やや離れた場所に浮かぶコウモリの姿が闇に溶け、再び人の姿を形作っていく。
 レオノアーヌは短剣を構えたままニヤリと笑った。
「へッ、そうきやがったか─────」
 人型の黒い影──────ドッペルゲンガーは、レオノアーヌの姿となった。
「面白えッ!! 相手してやんぜ!!!」


 ブリザドIV、フリーズと立て続けに炸裂する魔法に気付き、ミュゼルワールははっと顔を上げた。


 素早く視線を巡らせる。木立の向こうで何者かと交戦中のレオノアーヌの姿を視界に捉えた。
 立ち上がりかけたミュゼルワールは、しかし、不意に襲い来る見えない呪縛に四肢を縛りつけられ、再び地面に膝をついた。
「クッ……!!」


【獣ごときの血で乾きは癒されたか──────…?】
 ノスフェラトゥの声が低く響く。


 地にくずおれるミュゼルワールの前に姿を現し、ノスフェラトゥは地面に転がるスミロドンの心臓を拾い上げた。
【なるほどその場しのぎの代用とはなろう…、だが獣の血と人間の血とは決定的に違う………。なぜ我らが人間の血を食するか分かるか?】
 手にしたスミロドンの心臓を音を立てて握りつぶし、
【我らを生かすのは、《虚ろなる闇》を有する “人間” の血液のみ─────。他のものではありえないのだ。我らヴァンピールの生命の根源を成すのは、《虚ろなる闇》そのものなのだから──────…】
 鮮血をしたたらせる心臓の破片を無造作に振り払う。
【《虚ろなる闇》ある限り、我らもまた生き続ける………。“人間”がこの世にある限り、我らの命は永遠なのだ。】
 不意にミュゼルワールの上に屈み込むと、ノスフェラトゥは鮮血に濡れる手をのばし、ミュゼルワールの首を掴み上げた。
【我が牙を再び受け入れよ、同胞よ─────今まで幾度もそうしてきたように。純血種たる我にとり、吸血は命を分かつ儀式、痛みを、快楽を、全てを分かつ儀式──────…】
「や…め………ろ」
【お前は自ら進んでその喉笛を差し出したのではなかったか─────? 思い出せ、お前は幾度もそうして我と儀式を成してきたはずだ………。】
「嘘………だッ、や…め─────ろ…ッ!!!」
「ミュゼルワール!!!」
 レオノアーヌの鋭い声が響く。
「そんな戯れ言聞くんじゃねぇ!! お前は人間だ!! 戦う意志を捨てねぇ限りはな!!!」
 直後、付近の林でブリザガIIIが炸裂し、レオノアーヌの姿を保てなくなったドッペルゲンガーがコウモリへと姿を戻しながら散り散りになり、吹き飛ばされた。
「レオノ…アーヌ……?」
「チッ、ダンナの言いそうな台詞じゃねぇか。感化されるなんざ俺らしくもねぇ……」
 ぶちぶちと文句を言いながらレオノアーヌが姿を見せる。
「ミュゼルワール。俺はてめェのことが気に食わねぇ。………だがな、」
 レオノアーヌは立ち止まると、短剣の切っ先をぴたりとノスフェラトゥに向けた。


「こいつのやり方はもっと気に食わねぇ!! だからぶちのめす!!!」


【クックク……】
 ミュゼルワールの首を離し、向き直ったノスフェラトゥが巨大な爪を一閃させた。
 レオノアーヌが素早く飛びすさる。爪はわずかにレオノアーヌの頬をかすめたのみで空を切った。
【そんなんで届くかよ、バァカ!!】
【届く──────? なぜ、届く必要がある………?】
【あぁ…?】
 ノスフェラトゥが爪の先に付着したレオノアーヌの血をゆっくりと舐め取った。
 ミュゼルワールが目を見開く。
「…ッ!! 逃げろ、レオノアーヌ!!」
「あぁ? 何言ってん………」


 不意に。
 ──────ドクンッ。
 レオノアーヌの心臓が跳ね上がった。
「……な……?」


 ──────ドクンッ。
 ──────ドクンッ。


【呼応せよ──────…】
 ノスフェラトゥの歌うような声が流れる。


 レオノアーヌはギリッと歯を食いしばり、爆発しそうな心臓を押さえた。
「てんめぇ………何…しや…が…っ…た…………」
 顔を歪めるレオノアーヌの手から、短剣がこぼれ落ちる。


 がくりと膝をついたレオノアーヌは、すさまじい眼光でノスフェラトゥを睨みつけた。だが、その双眼は急速に力を失っていく。


 レオノアーヌの手が、目に見えない楔を断ち切ろうとするかのように宙に伸ばされた。だがその手は何も掴むことはなく、やがて完全に意識を失った身体が、ゆっくりと地面に崩れ落ちていった。


「レオノアーヌッ!!!」
 動かぬ身体で地面に爪を立て、ミュゼルワールが声を振り絞る。
【手間のかかることだ………】
 翼を広げレオノアーヌのかたわらに降り立つと、ノスフェラトゥはぐったりとして動かないレオノアーヌの身体を片手で掴み、ミュゼルワールの方に向き直った。
「貴…様…………ッ!!」
 憤怒に声を震わせるミュゼルワールを、ノスフェラトゥが悠然と見下ろす。
 ぐいと腕をのばし、ミュゼルワールの首を掴み持ち上げると、ノスフェラトゥはカッと口を開き、ミュゼルワールの肩の傷に深々と牙を撃ち込んだ。
「グ…ァ………ッ!!!」
 ノスフェラトゥは深く吸い上げた血潮を満足そうに嚥下し、顔を離した。
【じきに夜も明けよう…。城へ戻るぞ、ミュゼルワール】
 力を失ったミュゼルワールの身体をもう一方の手で掴み上げ、ノスフェラトゥは翼を広げると、高々と夜空に飛翔した。


 誰一人いなくなったその場所で、レオノアーヌの落とした短剣が月光をはね返し静かにきらめていた。








PHASE 1
END